映画とどこかまで行こう

主に観た映画の感想を。新作・旧作、劇場・DVD鑑賞混じります。時々テレビドラマも。

きっと、星のせいじゃない

原作を読んでから出かけた。難病ものとはいえ、キャラクターや会話がとても生き生きしていて、「お涙系」とは一線を画した魅力がある作品。主人公ヘイゼルのボーイフレンド、ガスは「自分内フィクションの中の素敵なボーイフレンドランキング」上位に来ると思う。

この物語は主人公の座右の書『至高の痛み』(映画の字幕だと『大いなる痛み』だっけ?)が大きな鍵になるので、フィクション内フィクションを映画でどういう風に描くのかはちょっと懸念ではあった。

映画の方は、出演者がみんな良くて、原作で妄想していたものがそのまま映像に!っていう部分がとても楽しかった。ヘイゼルとガスにイメージぴったりのキャストのかわいいカップルっぷりったら!ファンキーボーンズ(ってああいうのかぁ!)行ったり、アムステルダム行ったり、部屋(インテリアはあんか感じかぁ!)でだらだらしたりしてるのを眺めるだけで目に楽しい。母親役でローラ・ダーンが出て来て嬉しくなったと思ったら、後でウィレム・デフォーも出て来て興奮マックス。

ただ、小説にはあった恋人が弱っていって、どんどん自分のことが自分でできなくなっていき、いらいらしてゆく日々、まいにちまいにち傍にいるっていうくだりは、カットすべきじゃなかったように思う(そこがないからガソリンスタンドのシーンがやたら唐突だ)。難病物ではなくあくまで若者の恋愛ものってことに映画制作者側がこだわった結果なのかも知れない。でも、敢えて病気を採り挙げたのに、醜い部分、つらい部分、でもそこから逃げない部分を隠したり綺麗に描き過ぎるのもどうなのか。

原題は"The Fault in Our Stars"。 そもそもの由来はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』中の台詞"The fault is not in our stars, but in ourselves. "からで、「過ちは運命の中ではなく、我々自身の中にある」的な意味なのに対し、本書の主人公たちの病はもちろん本人のせいではないので、NOTが外されている。星のせい、と。でも邦題が逆になっているのがとても不思議で。もちろんシェークスピアの台詞の引用だということは分かりづらいから(多分、英語圏の人は知識として普通に備えているものなのだろうけど)、むしろ全く違うものに変えても良かったのにと思っていた。 でも、これが恋愛ものであるという視点で考えて、二人の恋は運命的なものではなく、本人たちが自身の魅力やパワーでつかみ取ったものだったんだ、という意味に取ればいいか。原題を訳したのではなく、原題をヒントにして、新しいタイトルをつけたのだと考えるべきなのかも。


映画『きっと、星のせいじゃない。』予告編 - YouTube

 

エンドロールが終わっても明かりがつかず、どーんと静止画で「感動をツイートしよう!#きっと星」って出たのは台無し。

その後すかさず日本版イメージソングのPVが容赦なく流れたのも台無し(だけれど、エンドロールで流れなかっただけでも感謝すべき?)。慌てて場内が暗いうちに帰った。

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その他原作と違う所メモ

  • 彼が勧めた本にもハマって続編を買うとこか、音楽の影響受けるとこはあっても。『至高の痛み』だけじゃなく、お互いに影響を受け合うのが良かったんだけど。
  • ヘイゼルが酸素ボンベに名前をつけてるとこ欲しかった。
  • オススメ本に電話番号を書いて渡す下りの会話が好きだったんだけど、なくってがっかり。
  • 『至高の痛み』の内容はもうちょっと詳しく出せなかったものか(いきなりハムスターに言及しても…)。でも劇中劇にでもしないと難しいか。
  • ブランコを売りに出すシーンは面白かったのに、なかった。でも後でなくなっていたから、撮影したけど切っちゃったのかも。
  • ヴァン・ホーテンの酷さは緩和されてた。その分かどうかは知らないけれど、溜飲が下がる秘書が辞めてやる!ってタンカ切るシーンもなかった。
  • ベッドに行く前にガスがもの凄く躊躇してヘイゼルを不安にさせるんだけれど、それは切断した脚を気にしてのことだったって描写、映画でも多少要素は入れていたけれど、もうちょっとあっても。あそこは凄くきゅんとしたんだけど。
  • 「キリストの心臓」の出し方は上手い!

原作が先だと、その知識で補完しながら映画を観てしまうので、一体自分は映画という1本の作品そのものを受け止めて楽しめているのかともやもやする。やっぱりできるだけ原作は後がいいなと思った。